必殺十三人 リメイク版『十三人の刺客』を観て
七人の侍』製作にあたって黒澤明はこう語った。
「ビフテキにバターを塗って蒲焼きを乗っけたような」作品にしたい、と。
 この度リメイクされた『十三人の刺客』(三池崇史監督)を観て頭に浮かんだのは、正にこのフレーズだった。とにかくゴージャス!
 オリジナルは1963年の同題作(工藤栄一監督)。名脚本家・池上金男(池宮彰一郎)がシナリオを執筆した、伝説的な名作である。実は1990年にテレビのスペシャル版でリメイクされたことがあるのだが、残念ながらアチシはこれ未見なので触れることができない。

 という訳で二度目のリメイクとなる本作。オリジナルに十分の敬意を払いつつも、脚本の天願大介はアレンジを加えて新たな名作を誕生させた。
この映画は、将軍の弟という身分を笠に乱行の限りを尽くす明石藩主・松平斉韶(なりつぐ)を討つ為、少数精鋭の侍が集められてこの任に当たる物語。オリジナルで暴君・斉韶を演じた菅貫太郎は、一躍“乱心系”悪役の第一人者になった。
 今回この役に当たるのはSMAPの稲垣吾郎。──この斉韶が、格段にレベルアップした狂気を見せるのだ。空気の読めないニート、いや、もはやジョーズやエイリアンと同様に、意志の疎通が不可能なモンスターと言って良い存在。
 主人公・島田新左衛門(役所広司)が老中・土井大炊頭邸で暗殺の決意をするシーンでは、斉韶によって両手両足を切られた女までが登場し、否応なしに怒りのボルテージが上がる手助けをしている。

 オリジナル・池上版と見較べてみる。大炊頭を無表情で腹に一物ありげな丹波哲郎が演じたこちらでは、暗殺の命(めい)は政治的な色合いが強い。
 幕府の体裁を整えたい、しかし将軍の下した「お咎めなし」の処置には逆らえないので、秘密裏に暗殺を実行させる──当時、松竹の『切腹』(1962年)あたりを皮切りに雨後の筍の如く量産されていた武士道残酷モノの系譜だナ、このドラマ作りは。丹波・大炊頭も「天下万民に災い」云々の理屈は述べているが、いかにも取って付けたよう。
 対してリメイク・天願版では「天下万民の為」が第一条件。平幹二朗の大炊頭は“人間としての良心”から暗殺の命を下し、役所・新左衛門も義憤がまず先に立つかたちでこれを受ける。
 それは他ならぬ斉韶の残虐度をぐっと増したドラマ造りありき。オリジナル版では権力サイドの人間であるが故の悪として造詣されていたのが、新版ではさながらテレビの『必殺』シリーズでいう“許せぬ人でなし”のような扱いになってる。
『必殺』シリーズは、市井(しせい)の人間が生活する上のモノサシで計った悪を仕置きするコンセプト。今回の『十三人~』も、主人公たちは武士でありながら、任務に臨む際のモノサシは市井の者の尺度に近い。
 封建制否定のメッセージを叩きつけるため、その汚さむごたらしさ不気味さを敢えて強調するのが昭和三十年代後半の武士道残酷モノの定石だった。が、現在はそうしたドラマ作りをするには受け手側の下地が出来ていないのか……ここに新旧版の違いを見た。
 それでも新六郎(山田孝之)、小弥太(伊勢谷友介)ら若者の目を通してサムライ否定へと繋がる本作、馬鹿馬鹿しく無残な武士道の悲哀を明石藩家老・鬼頭半兵衛(市村正親)が一身に引き受けているので、上手く成り立っている。
 同門で競い合ったという本作の新左衛門・半兵衛のライバル関係は、オリジナル版の新左衛門(片岡千恵蔵)・半兵衛(内田良平)というよりむしろ1961年『赤穂浪士』に於ける大石内蔵助(片岡千恵蔵)・立花左近(市川右太衛門)のようで、この二人の対立関係が抜群に面白くなっている! のである。

 モンスター映画であり、クライマックスの大殺陣(松方弘樹の殺陣が圧巻!)は戦争映画級で、しかも対決ドラマも充実──正に「ビフテキ+バター+蒲焼き」の豪華さ。とかく小ぢんまりしがちなのが昨今の時代劇映画だが、たまにはこれくらいのブチかましをしてくれないと。
 妙な例えになるが、二畳くらいの部屋に閉じ込められていたのが、パッと外に出して貰えて存分に手足を振り廻せるようになった──そんな心持ちになった人もいる筈。こういう時代劇もあるのだと今の世に示してくれたのは、お手柄でありましょうて。
 この調子で多彩な作品が作られ、ゆくゆくは時代劇の受け手の下地を……なんて思ってしまうのは、高望みでござんしょうかネ。

2018/10/20
*2010/11/05 旧〈牝犬亭雑記〉掲載分に加筆、修正

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