酒飲みに涙を呑んで
 過日、新聞にて酒と自殺についての記事を目にした。アルコール依存が自殺の原因になる――統計的な数字だけを見て一概に言い切ってしまうのは良くないが、事情によってはそういうこともあるだろうなァ、と思う。
 楽しく飲めるに越したことは無いのだが、何かから逃げて酒に手を伸ばすケースだって当然あるだろう。実際、酒に逃げなきゃやってらンないような世の中でもあるのだから。
 なのでアチシは、どうにもならない酔っ払いには共感を覚えもする。傍(はた)から見ていて「厭だナ」と思うのも事実だが、心の中では確かに共感してしまうところがあるのだ。

もう半分』という落語がある。アチシは五代目古今亭今輔の録音でよく聴いた。
 酒好きの老人が酒屋で、茶碗に半分のつもりでひっかける。しかしツイもう半分もう半分とお代わりをして、すっかり酩酊。そして訳ありの大金を置き忘れ、店の亭主にこれをネコババされる。無念の余り老人は川に身を投げて死んでしまう。
 大金を得て大店(おおだな)の主人に納まった亭主、女房との間に子をもうけるのだが、これが死んだ老人そっくり……
 サァ幽霊が怨みを晴らす怪談噺となるか、ト思ったらこの怪児、毎夜の如く行灯(あんどん)の油を飲むのである。陰から奇行を見ていた亭主が飛び出すと、怪児はイヒヒと笑って
「もう半分」……

 初めは何だかヨク判らなかった噺だが、何度か聴くうち、化けて出てまで酒(油で代用? しているが)に執着してしまう老人の、可笑しいながらどうしようも無い酒飲みの性(さが)が味なんだナと思い至った。


 昨年10月、加藤和彦の訃報に触れた折、発作的に『帰って来たヨッパライ』を聴き直した時、同じような感覚をおぼえた。
 酔っ払い運転で事故を起こし天国へ行った男。そこでも酒浸りになって神様につまみ出される。
 アチシは一ぺん死んで生き還る(この世に戻って来なきゃならない!)ということに著しく恐怖を感ずるタチなので、この酒飲みが過ぎて下界に追い返される男の歌を聴くと、たまらなく悲しくなって泣いてしまう。
 この歌の詞は、酔って畑で寝ていた男の夢だとか解釈もできよう。けれど、死んだと思ったら生きててよかったよかった、なァんて能天気な内容だとはアチシには思えないのである。

 仏教の考え方に六道(りくどう/ろくどう)というのがある。
〈天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道〉
 という六つの道(世界)のうち、人間道は善道の区分に含まれているらしい。信仰上の定義ではそうなっていようと、アチシには六つの中で人間道は最も醜悪にして唾棄すべき世界なんじゃないかと思われてならないのだ。
 畜生(動物に対してすんげえ失礼な語ですナ)も餓鬼も人間よりよっぽど善でしょう。六道の思想が生まれた古代はどうあれ、今アチシの生きる現代では、人間道が上位にあるものと位置づけられていいはずがない。
 歌の主人公・ヨッパライ氏は、いわば天道から人間道に差し戻されたかたちで“帰って来”る。六道思想本来の考え方ならワンランク落ちたに過ぎないことになろうが、アチシには一気ワースト下落としか受け取れない。
 酒がやめらんないから人間道に戻される悲劇! ああ、酒でも飲まなきゃ聴けない歌だ。


 一応ここは時代劇サイトなので、酒がキーワードの時代劇映画を挙げておこう。
 内田吐夢監督の名作『血槍富士』(1955年)。この作品で、主人公の槍持ち(片岡千恵蔵)の主である若侍(島田照夫)は、主席での口論から斬り殺されてしまう。直接酒に酔っての喧嘩では無いが、武家社会にやる瀬無さを感じ、飲まずにいられない気分になったのが原因である。
 千恵蔵演じる槍持ちの盲滅法な刺突は、過たず敵を捉えるような技術ではない。側の酒樽に突っ込み、滝のように流れ落ちる酒が作った泥の海で大立ち廻りを繰り広げる。
 主人を斬った直接の仇と同時に、もうひとつの仇=酒をも討っている。
 封建制への批判的メッセージもさることながら、酒飲みの悲哀が胸を打つ。


 ここに並べたのは、みな酒が元で命を落とした人たちだ。化けて出てまで飲んだり、飲んだ為に一度死んだのが蘇らされる破目になったり、蘇ることなく死んだり(これは当たり前)と程度は各々違っているが、いずれも劣らずミジメ。そんなミジメさが、たまらなく身につまされてしまうのである。

 もう一つ、こちらは明朗チャンバラ路線であるが、『人斬り笠』(1964年)のラスト、主人公の酒好き浪人(大友柳太朗)に向かって少女が言う台詞も、哀感を以て迫る。
「おじちゃん、あんまりお酒ばっかり飲んでると、ヨイヨイになるよ」……

2018/10/20
*旧〈牝犬亭雑記〉2010/11/11掲載分に加筆・修正

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