まさしく鬼・丹波哲郎の『鬼平』
 BSフジで再放送されている『鬼平犯科帳』の丹波哲郎主演版が先日終わった。
 この丹哲ヴァージョン、1シリーズ26話で終了しており、歴代鬼平の中では最も短く、また評判もあまり芳しくない。
 なるほど丹哲演じる長谷川平蔵は、品性や人情味に欠け、さながらギャングの親玉(この人は「お頭」より「ボス」の呼称が似合うと実感)みたいである。取り締まる側が犯罪者同様にガラ悪いってのはある意味リアリティがあるのだが、白鸚―吉右衛門の正統“江戸人”鬼平に慣れた目からすると、受け容れ難いものがあるかも知れない。アチシだって酒席で「ちょっとゴメン」と中座し「やァどうもどうも」と戻ってくる鬼平なんぞイヤである(第2話「雨隠れの鶴吉」)。

 なので、これはもう鬼平犯科帳という池波正太郎モノの時代劇ではなく、スター・丹波哲郎のドラマだと視点を切り替えて観るべきなのである。
 某Gメン同様、基本的に本部(役宅)に居座って偉そうに構えているのも、部下を叱り飛ばしたかと思うとニクい処置を取ってみせエエ格好するのも、盗人相手にエエ格好するのも、やたらとエエ格好するのもとにかくエエ格好するのも……丹哲だからと思えば無条件に納得できてしまう。むしろ、何やら楽しくなってくるほどですらある。
 たぶん、丹哲鬼平はそのように味わえばいいのだ。──って、それでは丹哲フリークしか楽しめないか。

 いや、真面目に論じてみてもこのヴァージョンはなかなかどうして捨てたものではない。
 松竹京都が映像美で魅せた吉右衛門ヴァージョンのおかげで、江戸情緒ばかりが取り沙汰され、ひいては池波正太郎への評価もそのへんに集まっていった傾向が強いが、池波小説の魅力はそこばかりじゃないだろうと、アチシなぞは常々思っているのだ。
 映画好きで、古いフィルム・ノワールからも多分に影響を受けているであろう池波正太郎の小説は、その作風からロマン・ノワール(暗黒小説)の呼び名が相応しい。ハードボイルドとも呼びたい。
 ここで言うハードボイルトは、私立探偵小説の定義ではなく、ヘミングウェイを引き合いに語られる“固茹で文体”の意味である。池波小説は文体も物語の造りも非常に乾いている。
 この乾きに注目して観ると、丹哲鬼平はピカイチの出来なのだ。そもそも主演の丹哲がハードボイルドを体現したような、ウェットさとは無縁の俳優だからして、作品全体の仕上がりは決まったようなものである。そんなカラーに合わせたか否か、脚本も大胆にアレンジして骨太な筋運びにしたものが多い。
 密偵加入回である第3話「盗みの掟」(原作は「血頭の丹兵衛」=小房の粂八が密偵入り)、第8話「盗人仁義」(原作は「敵」=大滝の五郎蔵が密偵入り)あたりは特にそれが効いており、追いつめられてどうにもならなくなった粂八や五郎蔵の絶望的な心境が痛いほど突き刺さってくる傑作に仕上がっていた。
 笠原和夫のホンによる第6話「浅草・鳥越橋」もまた、比べてみると原作が霞んでしまうようなドラマ性を与えられており、大いに作品のグレードを上げている。

 盗人は所詮盗人ゆえ「容赦はいらぬ」と厳しく挑む反面で、心憎い情けも垣間見せるのが長谷川平蔵というヒーローだが、丹哲ヴァージョンではその後者が明らかに不足している。配下の同心にまで徹頭徹尾厳しさをもって挑む(それにしたって、部下に対し「貴様も一緒に死んでしまえ」とか言っちゃうのは酷すぎる=第9話「流星」)。
 だから、丹哲鬼平とは、まさに「鬼」の平蔵。その面を押し出した超絶・ハードタッチ時代劇なのだ。
 池波正太郎モノとして観ずとも、丹波哲郎時代劇として評価すれば良いのである。

2018/10/20
*旧〈牝犬亭雑記〉2013/06/03掲載分に加筆、修正

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