情報・考
 この文章は、DeNAが運営する医療・健康関係の情報サイトで、裏づけが曖昧だったり、安易な転用をした記事が問題になった一件に絡んで“柄にもなく”時事的な戯言をぬかしたブログからの転載である。

 情報。じょうほう。ジョーホー。
 インターネットが当たり前のご時世にあって、情報化社会だの何だのと言われるが、どうにも好きになれない言葉である。
 頭ばかり硬くなって年寄りじみた脳ミソになりかかっているがアチシとて若者のひとり。割と幼い頃からインターネットの恩恵に預かっていた。「情報」を得ることにかけてはその昔の人に比べれば相当に発達していたほうだと思う。ホームページ作りに手を染めたのも中学生くらいのときだ。
 しかし、インターネットがどんどん普及していく途上だった十数年前に比べると、いま「情報」なるモノの精度はひどく落ちている気がしてならない。

 何か検索してみてヒットする結果にしても、なんだか本当に必要な「情報」とやらは果たしてどれだけそれを求めるひとに渡っているんだろうか、と疑問に思えてならない。
 通信料を別にすれば金がかからないメディアであるだけに、送り手側(特に企業)は広告料で利を得ることになる。そのためにページビューを稼がなければならないし、検索結果の上位に喰い込もうと血道を上げる。
 判りやすいネタや、毒にも薬にもならないがひとが喰いつきそうなネタを、よく精査もせず次から次へと垂れ流すことになるのは、まぁ当然の帰結なのだろう。

〈キュレーション〉なる言葉も、いつしか浸透してしまっている。要するに「情報」を右から左へ転がすだけでゼニに替えてしまう行為、とアチシはとらえているが……。
 そうした動きが良いことなのか悪いことなのかは判らないし、興味もない。転がし屋を否定する気もなきゃ肯定する気もない。
 ただ思うのは、この「情報」なるモノを得ようとする側のひとは、よっくその仕組みを呑み込んだ上で、自分の頭で判断して吟味をしてから、手元に引き寄せなきゃいけないのだろうってことだ。
 あまり好きでない言葉だが〈情報リテラシー〉ってやつか。

 ネットはだめで紙の資料はいい、なんて保守的でオツムの老化した意見も“電子書籍元年”などと騒がれた2010年あたりによく昇ったものだった。
 また2011年、東日本大震災に伴う福島原発事故の報道をめぐって、テレビの情報は操作されるからネットの情報がいいなんて盲信的なことが言われたこともある。
 どれも当たらないだろう。
 紙媒体で形として残るものであろうが、ネットで発信されるものであろうが、情報には媒介者がいる。媒介者(書く人間/編集する人間/ツイートする人間/拡散する人間etc…)はよく確認し校正をした上でそれを放っているか、何も考えずツルンとばらまいているか、受け取る側には確と判断しにくい。
 畢竟、自分自身で吟味して裏を取るなり何かして取捨選択しないことには、何をソース(情報元)にしようと同じことだ。

 仮にも知性を持ったニンゲンなんぞに生まれちまっている以上、考えることを放棄してしまっちゃオシマイである。脳ミソは飾りじゃない。見えないところに飾りをつけてどーする。

 というのはアチシ自身に向かって再度、自問自答のような覚書。
 一応、端くれの端くれではあるものの「情報」を扱っているのであろう我がホームページ。これとて「情報」を転がしているだけみたいなものだが、弁解にもならない言い訳をするなら、小手先でウェブ上の「情報」をチョチョイとつまんでくるようなマネだけはしていない。
 映画・ドラマ・小説などの創作物は、間違いなく作品そのものこそが一次資料であるととらえている。モノ自体を見ずしてコメントするなんて離れ業はアチシにゃできない。
 便利なWikipedia等の「情報」サイトからの転用も、ここではしていない。
 たまにちょこっとカンニングして参照することがあっても、そこから一次資料なり引用元資料へ確認の足掛かりとして利用するに留まる。
 ある程度の資料をもとにした上で、やっと載せる。
 だから物凄く更新が遅い。これ完全に言い訳である。
 別にページビューを稼いであぶく銭をかき集めようってんじゃないのだから、非効率でもそれくらいの手間をかけてもいいだろう。
 ただし、その分ここにある時代劇関係の「情報」は、ある程度信用してもらってもいいんじゃないだろうか(知性と比例して多分に欠点も抱えた生き物・ニンゲンのすることなので、ミスもある点はご容赦を)。

2018/10/20
ブログ「時代劇党宣言」 2016/12/21記事を加筆、修正

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